ニーバーの祈り
運命の人
若者のすべて
おっきな会社のオフィスに行って思うがままに喋ってきた。
はてブでもとかくエントリーのネタになりがちな、とあるおっきな会社(別の業界)のオフィスに呼ばれて、自由にいろいろ喋っていいよという機会をいただいたので、先月行ってきました。
いやしかし、おっきかった、オフィス。というかビル。自社ビル!いいな!!
あまりに大きくて洗練されていたもんで、入り口(自動ドア)がどこかわからずビルの目の前で数分迷いました。やっと気づいて「ああ、これドアか。」と一人で声に出してしまいました、恥ずかしい。
こちらも負けじと、大都会東京は青山の一等地に10年以上いるにもかかわらず、圧倒されるものがありました。いやはや根っからの田舎者です、あらためて実感。
今回は事前に社内へ呼びかけをしていただいて、興味ある人は自由に参加していいよという形式のトークイベントで、緊張するにじゅうぶんなくらいの方に集まっていただき(ほんとすみません、恐縮しました)、そこへ招かれた僕が、いくつかのテーマを軸にあれやこれやと喋り、それを聞いてもらいつつ質疑応答するというもので、大変貴重かつ有意義な時間を過ごさせてもらいました。
なにか少しでも役にたてていたらいいなあと思いながら帰路についたのですが、振り返ってみて思うのは、人はすごく優秀なんだな、と。それがあまりにも大きな企業体になってしまうと、上手く噛み合わなくなって、その良さが活かしにくくなったり、大事なことが見えづらくなったり、スピード感を失ったりと…様々な現象が起きるわけですね。
すごく雑多にではあるけれど、よく考えることのひとつに、物事には適正な大きさがあるんじゃないだろうかというのがあります。
高度経済成長期には、とにかく世界の先進国に追いつけ追い越せと、諸先輩方の絶え間ない努力や苦労もあって、豊かな今日を迎えているわけだけれど、はたしてこの2014年現在において、その価値観だけが正しいのかどうか、ということをあらためて考える必要があるのかもしれません。
大きすぎるものを維持する力と、物事を良くする力とは、必ずしも相性が良くなかったりするということを、日々の仕事のなかで実感することもあります。
漠然とした書き方をしてはいますが、日常にあるほんの些細な物事のなかにも、そういうことを考える場面はきっとあるので、ひとつひとつちゃんと考えながら毎日を過ごしたいなとあらためて思う機会となりました。
と言う、独り言のようなブログを久々に更新。
行き先のない手紙のように。
35歳になった。
正確に言えば、35歳になってからもう一ヶ月がたった。
明日は自動車免許の更新期限日なので、こんな夜中にブログの開設などしている暇があれば、さっさと寝て明日に備えるべきではあるのだけれど。なにぶん、なにをするのもつい面倒くさがる性格なので、免許の更新ひとつもぎりぎりまで動く事ができない。なんにでも用意周到に、そして正確に動ける人を尊敬したいと思いつつ、なんとなくそういう人を横目でいぶかし気に見てしまう自分がいる。
そういえば約一ヶ月前の誕生日の夜に、せっかくだし何か始めようかなんて考えて、そうだな、曲でも書いてみるか、いやなんか違うな、そうだブログでも、なんて思ったままあっという間に今日になったわけだ。そして今夜を逃すと次は来年なるかもしれないぞ、などと残りカスのようなやる気と勢いでパソコンを立ち上げ、おもむろにブログを開設してみた。
しかし個人ブログというものの、なんというデジタルデータのゴミっぷりであることか。書いているそばから虚しさが込み上げてきて泣けてしまう。ワールドワイドウェブの海に漂う、行き先不明の瓶詰めの手紙。世界を巡り巡って、最後は自分で拾い上げ、懐かしさと共に読んだのち、ひっそりと焚き火の種にするんだろう。せめて少しでもその焚き火で暖がとれればなにか救いがあるのかもしれない。あるわけないだろう、なんにもなんねえよとわかっていつつも、ひとまず一回目のエントリーとしてみるわけです。